川辺泉田まちづくり協議会(かわせん)

川辺泉田まちづくり協議会(かわせん)|長野県上田市

Historical resources 歴史的資源


上田原
 
上田原の歴史的資源の場所はこちら ①-1上田原古戦場碑

上田原古戦場碑

 石久摩神社境内に昭和44年12月地元住民をはじめ近隣地域の皆さんの寄付により古戦場碑を建立し、翌昭和45年3月、村上義清の子孫関係者を招き除幕式を行いました。


①-2上田原合戦戦没将士の位牌

 
 石碑の建立に伴い、合戦で戦死された将士を弔うために観音寺に位牌を納め、毎年8月9日戦没将士慰霊法要を執り行っています。 上田原合戦戦没将士の位牌

復元された信玄道
 
復元された信玄道  川辺小学校西側土手の一部から石久摩神社のきわを通っている傍道を信玄道と伝承されています。
 武田信玄が天文17年物見山に陣を張り、そこから決戦の場(現在の県営上田野球場一帯)まで通ったとされています。道の両側には、地元の中学生により桜の木が植樹され、花の時期には桜の名所として多くの人が訪れています。(平成17年県の元気づくり支援金を活用し復元事業を行いました)

旧川辺村役場建物
 
旧川辺村役場建物  明治22年(1889)に上田原、下之条、築地、神畑が合併、川辺村になった時の役場として使用された建物です。この建物は平成3年に上田原資料館として地域より寄贈された農具、養蚕、生活用具、遊具類や、上田飛行場の掩体内の飛行機が機銃掃射された時の薬夾及び朝鮮人労務者の飯場用具なども展示され、随時見学が可能でしたが、建物の老朽化により、現在は見学をとりやめています。
 なお、展示物は川辺小学校の校舎内にある郷土史料室に隣接した空室に上田原資料館として併設し、子どもたちと地域の歴史を知るコミュニティが図れるよう取組み中です。
 
石久摩神社

石久摩神社
無名戦士の墓

無名戦士の墓
 建御名方命、事代主命、八坂刀売命、を祭っています。上田原合戦の主戦場でもありました。集落の旧松本街道からの参道は、神社に平行している大変珍しい横参道です。  石久摩神社の西方50mの水田地帯一角に、上田原合戦の際戦死された将士の五輪が多数点在していました。その一部が安置されています。(平成26年5月古戦場保存会により土台を整備)
 
雨宮刑部の墓

雨宮刑部の墓
観音寺鰐口

観音寺鰐口
 県営上田野球場東側駐車場近くにあります。雨宮刑部も上田原合戦時に村上軍の将士、小島権兵衛、屋代源吾とともに討死しました。  室町時代初期の永享9年(1437)に聖英祐が浅井寺に奉納したことが刻まれた銘によって分かります。浅井寺(青木村当郷)が廃寺になった際に観音寺に移されたものでしょう。銅製の鰐口で、昭和43年(1968)市指定文化財に指定されました。



川辺町
 
上田原石造五輪塔

上田原石造五輪塔
川辺町の歴史的資源の場所はこちら

種別:市指定 石造物 指定:昭和61年6月5日
所在地:上田原712-5 所有者:倉枡 勲 年代:鎌倉初期

 上田原五輪塔は、国道143号線沿いの、倉枡家の宅地の中にあります。この塔は上田・小県地方に分布している石造五輪塔の中で、古い時代の形をしている塔として有名です。また、鎌倉時代にこのあたりに住んでいたといわれる武士、上田原平三の供養塔とも推定されています。 上田原平三については、延暦三年(1213)におきた大きな事件泉親ひらの乱の中にその名が出てきます。その事件は、信濃国小県郡小泉庄(上田市)に本拠をもつ源氏の一族泉親衡を中心に多くの武士が頼家の子、千寿を将軍に立てようと図ったのです。ところが事前にこのことが北条方に知れ、一味の者は捕えられました。上田原平三もその中の一人でした。
 五輪塔は総高135cm、どっしりとして、いかにも安定感があり、古い様式で造られており、特にすばらしいのは、水輪の中央に刻まれた梵字「バン」(大日如来)です。力強く大きく薬研彫(文字をV字形にするどく切り込むほり方)で表しています。石造で、これ程みごとな梵字は、めったに見ることができません。(上田市史より抜粋)



倉升

 
倉升の歴史的資源の場所はこちら 倉升のお水神様

倉升のお水神様

 慶安元年(1648)に築かれたと伝えられる長池を守り続けてきた神様です。
 中池、東池の埋め立てにともない昭和57年(1982)に、現在地に遷宮されました。

金城炭鉱、射撃場跡

金城炭鉱、射撃場跡

 神畑原峠線のわきに、「くらます山散歩道」の案内板があり、そこから500mほど登って行くと「さとやま広場」に出ます。ここは、かつて昭和10 年(1935)代から20 年(1945)代初期にかけて亜炭の採掘を行っていた金城炭鉱がありました。昭和24 年(1949)に閉山され、その後一時、警察官の射撃練習場として使用されましたが、現在はこれらの面影は残っていません。
 
飯綱社

飯綱社
長池

長池
 倉升の産土神です。鳥居の手前左右にある石灯籠には「文化12年11月吉日」と刻まれています。祭神は「保食神」と『小県郡上田原村村誌』(明治14年刊)に記されていますが、『上田市誌』では「食稲魂」と記載されています。  仙石氏時代の慶安元年(1648)上田原村の東南、倉升山麗に築造されました。西の池、中池、東池の三池から成り、水源は諏訪形山の渓水で、須川池からも通水しました。
 昭和59年(1984)に中池と東池が埋め立てられ創造館、長池公園ができ、現在は西の池だけが残っています。



下之条

下之条の歴史的資源の場所はこちら
 
天白山(須々貴山)

天白山(須々貴山)
屋代源吾・小島権兵衛の墓

屋代源吾・小島権兵衛の墓
 半過岩鼻の南隣に位置し、上田原合戦のときに村上義清が陣を構えたと伝えられています。
 590段の石段を登ると、千曲公園とともに城南地域が一望できます。
 ちなみに、武田信玄は神畑の物見山に陣を構えたと伝えられています。
 天文17年(1548)上田原合戦の際、武田軍を窮地に追いやった村上軍の武将の墓が、下之条の水田地帯に残っています。
 
板垣信方の墓

板垣信方の墓
葦原淵神社

葦原淵神社
 武田軍の重臣武将です。煙草好きで、天文17年(1548)上田原合戦の際、一服していた時に、不意打ちに会い戦死したと伝えられ、今でも煙草の供え物があります。  大鷦鷯命を祭っています。古くは、若宮八幡と言いました。



神畑
 
神畑の歴史的資源の場所はこちら 加美畑神社

加美畑神社

 祭神は建御名方命です。命が出雲より信濃の国に下降の際、生島足島への途路当所に留まり治水、産業を興しました。命が留まった場所を「御着」、そして神の幡が「神畑」と称されるようになったと伝えられています。境内には蚕影社、疱瘡社、阿夫利社、神明社、秋葉社、飯綱社が合祀されています。
 
神畑山超誓寺

神畑山超誓寺
薬師堂

薬師堂
 永禄11年(1568)開山された知恩院直末の寺院です。寛政4年(1792)に全焼しましたが、天保14年(1843)に本堂が再建されました。再建に際しては、信濃国分寺の金堂の建替えで不要になった古材を18両で購入したことが史料に残されています。その後、平成7年(1995)に大改修が行われました。  超誓寺境内にある薬師堂は、平成7年(1995)落雷により消失し、翌8年(1996)に再建されたものです。現在も「お薬師様」としたわれ、秋の祭には大勢の人々が参詣しています。この薬師堂は初め神畑山山峰(薬師平)にあり、その後、狐ケ原、産川べり、そして超誓寺へと位置を移しています。
 
地蔵堂

地蔵堂
物見山(御陣ヶ入、御陣ヶ原)

物見山(御陣ヶ入、御陣ヶ原)
 神畑橋の北側、道路わきにあります。昔、産川に大洪水があって、橋のところに流れ着いたお地蔵さんを拾い上げて、そこに祠をつくり祀ったのが始まりだと言い伝えられています。
 堂内には、赤い頭巾に赤いよだれかけ姿の愛らしい立像の地蔵尊が安置されています。
 物見山一帯は、武田晴信(後の信玄)と村上義清が天文17年(1548)に戦った上田原合戦にて武田軍が陣を構えた所とみられており、近くには御陣ヶ入、御陣ヶ原、兵糧山、鉦ヶ窪、味方原など武田軍の布陣を示す地名が残されています。
 ここから村上軍が陣を構えた天白山(須々貴山)とともに城南地域が一望できます。
 
火伏せ祭井戸

火伏せ祭井戸
神畑公民館

神畑公民館
 昭和33年(1958)に水道が敷設されるまで生活用水として使用していた共同井戸です。かつては隣近所総出で井戸の掃除(井戸がえ)をし、その労をねぎらっていました。現在も毎年4月2日は「火伏せ祭」として往時を偲んで宴を持っています。平成21年(2009)4月、わがまち魅力アップ応援事業で手塚家の井戸を使い、井戸がえが復活されました。  清涼殿ともいうような荘厳の感じを持つ公民館です。戦後間もない昭和27年(1952)1月に竣工しました。当時の川辺時報に「広間、貴賓室、会議室、図書室、調理室、映写室、小使室を持ったモデル公民館…」と報じられています。途中幾度か修理、補強され現在も自治会活動の拠点として区民に利用されています。



築地

築地の歴史的資源の場所はこちら
 
弓立神社

弓立神社
旧倉沢家住宅

旧倉沢家住宅
 昭和3年(1928)に拝殿が改築されました。本殿は流れ造りで、棟飾りが「鬼瓦」ではなく「鬼板」になっているのが珍しいです。  倉沢家は長い間小泉組の割番を務めた旧家で、建築年代は17世紀の中期から後期と推定されています。付属建物がそろっている点でも貴重で県指定文化財になっています。
 
築地池

築地池
築地の家並み

築地の家並み
 米倉池とも言います。文化2年(1805)45日間という短期間で造られました。天保6年(1835)に増築されて、堤が一部道路として使われています。  旧街道沿いに並ぶ蚕種家「北南館」と蚕室造りの民家から、歴史が感じられます。
 「北南館」には、井戸や幾つもの蔵が保存されています。



東築地
 
 
道祖神

道祖神
石久摩淵と緑橋

石久摩淵と緑橋
 東築地の道祖神は、団地のわきを流れる産川の桜並木のそばに建てられています。
 なお、この東築地団地は産川が大きく「くの字」に湾曲している西側地籍に昭和43年に県企業局による宅地造成、分譲により誕生した100戸あまりの集落ですが、入居者のほとんどが20代、30代の若い世代であり、各家庭の子どもたちの育成のためにと、保護者達により道祖神が建てられ、今日まで子どもたちの守り神として見守ってきました。
 この子どもたちの通う川辺小学校の校歌第三唱に「石久摩淵の月影や兵どもが夢のあと…」と詠われている「石久摩淵」は、先の産川の流れが湾曲した箇所です。
 当時の産川は、この箇所にあった堰で止められ、ゆったりとよどんでおり夏の時期は子どもたちの格好の水遊び場であったとのことです。その後、堰が取り除かれ石久摩淵は消えてしまいましたが現在も当時の面影が偲ばれます。また、その当時に掛けられた手前の「緑橋」は幅1mあまりの歩道橋で吉田、福田、築地、東築地から学校までの最短の通学路になっており、今も元気な子どもたちの笑い声、話し声に満ちています。


半過
 
千曲公園



 「手掘りのトンネル」(㉜)からの景色が日本百景に選ばれたのを記念して、岩鼻の上に作られたのが千曲公園です。当時多くの方々の賛同のもと、土地の提供なども受け出来上がりました。
 園内には「千曲の清流」(徳富蘇峰書)の石碑が建立されています。また、五穀豊穣と商売繁盛の駒場稲荷神社もあります。
 開園当時植えられた桜のほか、最近地元の有志により花桃が植えられ、花見の時期には多くの人で賑わいます。 公園からは、北に坂城町や千曲市、眼下には千曲川や「上田道と川の駅」、さらに上田市街地や塩田平、遠くに小諸まで見渡すことができます。また、武田信玄と村上義清が戦った上田原合戦場の辺りも手に取るように見ることができます。
 千曲公園へは「上田道と川の駅」から約700m、徒歩20分ほどで行くことができます。
 
岩鼻

手掘りのトンネル

 120mの絶壁が千曲川にせり出すようにそびえています。かつてここは川の底でしたが、地殻変動により岩山がせり上がり、それが千曲川の流れで削られて絶壁になりました。真下から見ると、茶色い岩の間に白っぽい丸い岩がたくさん見えます。これは「捕獲石」と呼ばれ、岩がせり上がる時、川の石を巻き込んだものです。また、千曲川の対岸からトンネルのように見える穴は、川の水が強くぶつかって岩の奥まで削りできたものです。そして、この崖はかつてはチョウゲンボウの営巣地でした。
 さらに“その昔このあたりは湖でした。沢山のネズミがその西の端にすんでいて田畑を荒らしたので、唐猫を連れて来て退治…”という伝説もあります。
 かつて上半過と下半過の往来は、狭く危険な山や崖を越え、千曲川の沿岸道に出ていました。
 そういう危険な道を越えなくても通れるよう、明治33年頃、山の下にトンネルが掘られました。石ノミなどを使い、岩肌がそのまま残っていることから「手掘りのトンネル」と言われています。このトンネルから撮影した千曲川の景色が、大正11年日本百景に選ばれました。
 トンネルは崩落の危険があるため、現在は中に入れません。

塩田神社(鹽田神社)
 
 塩田神社のある山口地区一帯は、その昔「塩田村」と呼ばれていました。神社はその名を残し、山口の集落のほぼ中央に建てられています。
 祭られているのは、『古事記』『日本書紀』にも登場する海神の「鹽土老翁神」です。
 約400年前の建立と言われていた旧社殿は、平成20年地区住民によって建て替えられました。けれども、入口の鳥居は当時のまま残されています。
 かつてお祭りに使った芝居(塩田歌舞伎)の背景画や幕が、現在も保存されています。また、社殿の裏には下の曽良の句に詠まれた沼もありましたが、今は埋め立てられ遊園地になっています。
 
河合曽良の句碑

水神様と木符

  塩田神社境内にある縦75cm、横48cmほどの石碑で、河合曽良が1702年頃献納したと伝えられています。曽良は上諏訪出身の俳人で、松尾芭蕉の弟子です。碑には「汐飛ぶや岩にこびつく沼の苔」という曽良の句が刻まれています。曽良が芭蕉の『更級紀行』の跡をたどって「姨捨の月」を訪ねた折、上諏訪の生家への帰途、塩田神社へ立ち寄ったのではないかと言われています。  産川と浦野川合流地点の下流、昔「塩田川」と呼ばれた山口地区内の川、その堤防わきに祀られた石の祠の水神様です。祠の中にあった木符(写真)の表に「奉造立 九頭竜大権現」、裏に「干時永禄七甲子年三月吉日 願主塩田村 祈願大法要」とあるので、永禄7年(1564)の建立と思われます。おそらく、水を鎮め人々の生活や田畑を守ってもらうことを願い造立されたのでしょう。

県道力石上田線改修、開通記念碑
 
 半過洞門(現在不通)の上半過側出口から約30mの旧県道沿いに建つ高さ5mほどの石碑です。大正3年から昭和7年まで、約20年間の県道の道路工事の歴史が刻まれています。
 険しい崖や巌を切り崩す難工事、資金難などの苦労を乗り越え、ついに県道力石上田線の改修、開通を実現させたのは地域住民でした。その熱き思いと行動の様子が、力強い漢字カナ交じり文で記されています。碑文は、上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)初代校長、針塚長太郎先生の作・書によるものです。
 
モイワナズナ


中の沢遺跡、半過古墳群
(上田市文化振興課から提供)

 半過の岩鼻と北海道の藻岩山だけに生えている貴重な花で、県の天然記念植物です。氷河期の生き残りだと言われていますが、藻岩山で最初に発見されたところから「モイワナズナ」と名付けられました。4月から5月にかけ人の手の届きにくい岩壁で、可憐な白い花が小群落を作り開花します。近い将来、絶滅が心配される「絶滅危惧種」で、地域では保存・増殖にも力を入れています。  「上田坂城バイパス」建設工事に絡み、半過地区埋蔵文化財の記録保存のため平成18〜19年に発掘調査が行われました。その結果、縄文から平安にかけての遺跡から、古墳や住居跡、そして人骨、土器、副葬品等が多数出土しました。現在は埋め戻され遺跡を見ることはできませんが「上田道と川の駅」に古墳が復元され、諸資料は国分寺資料館に保管されています。
 
半過の家並み

薬師堂

 明治初年頃に建てられた蚕室造りの民家で、大屋根の上には気抜きが載っています。
 かつて半過は養蚕で栄えていましたが、今でもこのような民家がまだ何軒か残っています。
 このころの半過は、ほとんどの家が養蚕に関わっており、品質のよい蚕種がとれることで名が知られていました。また、全国各地に蚕種を届け、そのかわりにその地の名産品(お茶や綿など)を仕入れて帰り、販売していた家もありました。
 下半過地籍にある薬師堂は、享保6年(1721)に芳泉寺第2世鉄心和尚によって創建されました。本堂には薬師如来が、堂庭には六地蔵が安置されていました。
 本堂が昭和18年火災により焼失したため、薬師如来は新しく建てられた薬師堂に安置されました。ところが、その仏様は昭和51年に盗難に遭い、今も行方不明です。その後住民の熱意で新仏像(増田国雄先生作)が安置され、現在に至っています。



福田
 
 
福田神社

宝池

 祭神は事代主命、建御名方命、大国主命です。秋祭りには獅子舞が門付けで舞ってくれます。鳥居の「福田」は珍しい字が使われています。隣にある観音堂は、りんご祭りで有名です。  享保19年(1734)に起工された宝池は、上田藩が資材を調達し、上田領内全域から1万3000人余りの人を集めて、わずか20数日の短期間で完成しました。その後、文化14年(1817)に修築されました。別名福田池とも言われ、住民から親しまれてきました。



吉田
 
嚮善学校正門



 小泉・下室賀・吉田・福田村立学校として明治10年(1877)設立されました。大正5年(1916)吉田区に払い下げられ、平成13年(2001)に第六中学校の地に移されました。

古池



 仙石氏が上田に移封したころには既に築かれていたと言われるほど古くからある池です。天明2年(1782)増築され、きれいな菱形をしています。池を造った記念として建てられたと言われる「青木(※)のお地蔵さん」があります。※青木は地域の字名です。

枡池



 名前の由来は四角い形から枡池といいます。小高い丘の上にあるので、地元の人は上池ともいいます。明和8年(1771)に願い出して翌年完成しました。

上田原

上田原の歴史的資源の場所はこちら

①-1上田原古戦場碑



 石久摩神社境内に昭和44年12月地元住民をはじめ近隣地域の皆さんの寄付により古戦場碑を建立し、翌昭和45年3月、村上義清の子孫関係者を招き除幕式を行いました。


①-2上田原合戦戦没将士の位牌



 石碑の建立に伴い、合戦で戦死された将士を弔うために観音寺に位牌を納め、毎年8月9日戦没将士慰霊法要を執り行っています。


復元された信玄道



 川辺小学校西側土手の一部から石久摩神社のきわを通っている傍道を信玄道と伝承されています。
 武田信玄が天文17年物見山に陣を張り、そこから決戦の場(現在の県営上田野球場一帯)まで通ったとされています。道の両側には、地元の中学生により桜の木が植樹され、花の時期には桜の名所として多くの人が訪れています。(平成17年県の元気づくり支援金を活用し復元事業を行いました)


旧川辺村役場建物



 明治22年(1889)に上田原、下之条、築地、神畑が合併、川辺村になった時の役場として使用された建物です。この建物は平成3年に上田原資料館として地域より寄贈された農具、養蚕、生活用具、遊具類や、上田飛行場の掩体内の飛行機が機銃掃射された時の薬夾及び朝鮮人労務者の飯場用具なども展示され、随時見学が可能でしたが、建物の老朽化により、現在は見学をとりやめています。
 なお、展示物は川辺小学校の校舎内にある郷土史料室に隣接した空室に上田原資料館として併設し、子どもたちと地域の歴史を知るコミュニティが図れるよう取組み中です。


石久摩神社



 建御名方命、事代主命、八坂刀売命、を祭っています。上田原合戦の主戦場でもありました。集落の旧松本街道からの参道は、神社に平行している大変珍しい横参道です。


無名戦士の墓



 石久摩神社の西方50mの水田地帯一角に、上田原合戦の際戦死された将士の五輪が多数点在していました。その一部が安置されています。(平成26年5月古戦場保存会により土台を整備)


雨宮刑部の墓



 県営上田野球場東側駐車場近くにあります。雨宮刑部も上田原合戦時に村上軍の将士、小島権兵衛、屋代源吾とともに討死しました。


観音寺鰐口



 室町時代初期の永享9年(1437)に聖英祐が浅井寺に奉納したことが刻まれた銘によって分かります。浅井寺(青木村当郷)が廃寺になった際に観音寺に移されたものでしょう。銅製の鰐口で、昭和43年(1968)市指定文化財に指定されました。


川辺町

川辺町の歴史的資源の場所はこちら

上田原石造五輪塔



種別:市指定 石造物
指定:昭和61年6月5日
所在地:上田原712-5
所有者:倉枡 勲 年代:鎌倉初期

 上田原五輪塔は、国道143号線沿いの、倉枡家の宅地の中にあります。この塔は上田・小県地方に分布している石造五輪塔の中で、古い時代の形をしている塔として有名です。また、鎌倉時代にこのあたりに住んでいたといわれる武士、上田原平三の供養塔とも推定されています。 上田原平三については、延暦三年(1213)におきた大きな事件泉親ひらの乱の中にその名が出てきます。その事件は、信濃国小県郡小泉庄(上田市)に本拠をもつ源氏の一族泉親衡を中心に多くの武士が頼家の子、千寿を将軍に立てようと図ったのです。ところが事前にこのことが北条方に知れ、一味の者は捕えられました。上田原平三もその中の一人でした。
 五輪塔は総高135cm、どっしりとして、いかにも安定感があり、古い様式で造られており、特にすばらしいのは、水輪の中央に刻まれた梵字「バン」(大日如来)です。力強く大きく薬研彫(文字をV字形にするどく切り込むほり方)で表しています。石造で、これ程みごとな梵字は、めったに見ることができません。(上田市史より抜粋)


倉升

倉升の歴史的資源の場所はこちら

倉升のお水神様



 慶安元年(1648)に築かれたと伝えられる長池を守り続けてきた神様です。
 中池、東池の埋め立てにともない昭和57年(1982)に、現在地に遷宮されました。

金城炭鉱、射撃場跡



 神畑原峠線のわきに、「くらます山散歩道」の案内板があり、そこから500mほど登って行くと「さとやま広場」に出ます。ここは、かつて昭和10 年(1935)代から20 年(1945)代初期にかけて亜炭の採掘を行っていた金城炭鉱がありました。昭和24 年(1949)に閉山され、その後一時、警察官の射撃練習場として使用されましたが、現在はこれらの面影は残っていません。


飯綱社



 倉升の産土神です。鳥居の手前左右にある石灯籠には「文化12年11月吉日」と刻まれています。祭神は「保食神」と『小県郡上田原村村誌』(明治14年刊)に記されていますが、『上田市誌』では「食稲魂」と記載されています。


長池



 仙石氏時代の慶安元年(1648)上田原村の東南、倉升山麗に築造されました。西の池、中池、東池の三池から成り、水源は諏訪形山の渓水で、須川池からも通水しました。
 昭和59年(1984)に中池と東池が埋め立てられ創造館、長池公園ができ、現在は西の池だけが残っています。


下之条

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天白山(須々貴山)



 半過岩鼻の南隣に位置し、上田原合戦のときに村上義清が陣を構えたと伝えられています。
 590段の石段を登ると、千曲公園とともに城南地域が一望できます。
 ちなみに、武田信玄は神畑の物見山に陣を構えたと伝えられています。


屋代源吾・小島権兵衛の墓



 天文17年(1548)上田原合戦の際、武田軍を窮地に追いやった村上軍の武将の墓が、下之条の水田地帯に残っています。


板垣信方の墓



 武田軍の重臣武将です。煙草好きで、天文17年(1548)上田原合戦の際、一服していた時に、不意打ちに会い戦死したと伝えられ、今でも煙草の供え物があります。


葦原淵神社



 大鷦鷯命を祭っています。古くは、若宮八幡と言いました。


神畑

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加美畑神社



 祭神は建御名方命です。命が出雲より信濃の国に下降の際、生島足島への途路当所に留まり治水、産業を興しました。命が留まった場所を「御着」、そして神の幡が「神畑」と称されるようになったと伝えられています。境内には蚕影社、疱瘡社、阿夫利社、神明社、秋葉社、飯綱社が合祀されています。


神畑山超誓寺



 永禄11年(1568)開山された知恩院直末の寺院です。寛政4年(1792)に全焼しましたが、天保14年(1843)に本堂が再建されました。再建に際しては、信濃国分寺の金堂の建替えで不要になった古材を18両で購入したことが史料に残されています。その後、平成7年(1995)に大改修が行われました。


薬師堂



 超誓寺境内にある薬師堂は、平成7年(1995)落雷により消失し、翌8年(1996)に再建されたものです。現在も「お薬師様」としたわれ、秋の祭には大勢の人々が参詣しています。この薬師堂は初め神畑山山峰(薬師平)にあり、その後、狐ケ原、産川べり、そして超誓寺へと位置を移しています


地蔵堂



 神畑橋の北側、道路わきにあります。昔、産川に大洪水があって、橋のところに流れ着いたお地蔵さんを拾い上げて、そこに祠をつくり祀ったのが始まりだと言い伝えられています。
 堂内には、赤い頭巾に赤いよだれかけ姿の愛らしい立像の地蔵尊が安置されています。


物見山(御陣ヶ入、御陣ヶ原)



 物見山一帯は、武田晴信(後の信玄)と村上義清が天文17年(1548)に戦った上田原合戦にて武田軍が陣を構えた所とみられており、近くには御陣ヶ入、御陣ヶ原、兵糧山、鉦ヶ窪、味方原など武田軍の布陣を示す地名が残されています。
 ここから村上軍が陣を構えた天白山(須々貴山)とともに城南地域が一望できます。


火伏せ祭井戸



 昭和33年(1958)に水道が敷設されるまで生活用水として使用していた共同井戸です。かつては隣近所総出で井戸の掃除(井戸がえ)をし、その労をねぎらっていました。現在も毎年4月2日は「火伏せ祭」として往時を偲んで宴を持っています。平成21年(2009)4月、わがまち魅力アップ応援事業で手塚家の井戸を使い、井戸がえが復活されました。


神畑公民館



 清涼殿ともいうような荘厳の感じを持つ公民館です。戦後間もない昭和27年(1952)1月に竣工しました。当時の川辺時報に「広間、貴賓室、会議室、図書室、調理室、映写室、小使室を持ったモデル公民館…」と報じられています。途中幾度か修理、補強され現在も自治会活動の拠点として区民に利用されています。


築地

築地の歴史的資源の場所はこちら

弓立神社



 昭和3年(1928)に拝殿が改築されました。本殿は流れ造りで、棟飾りが「鬼瓦」ではなく「鬼板」になっているのが珍しいです。


旧倉沢家住宅



 倉沢家は長い間小泉組の割番を務めた旧家で、建築年代は17世紀の中期から後期と推定されています。付属建物がそろっている点でも貴重で県指定文化財になっています。


築地池



 米倉池とも言います。文化2年(1805)45日間という短期間で造られました。天保6年(1835)に増築されて、堤が一部道路として使われています。


築地の家並み



 旧街道沿いに並ぶ蚕種家「北南館」と蚕室造りの民家から、歴史が感じられます。
 「北南館」には、井戸や幾つもの蔵が保存されています。


東築地

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道祖神



 東築地の道祖神は、団地のわきを流れる産川の桜並木のそばに建てられています。
 なお、この東築地団地は産川が大きく「くの字」に湾曲している西側地籍に昭和43年に県企業局による宅地造成、分譲により誕生した100戸あまりの集落ですが、入居者のほとんどが20代、30代の若い世代であり、各家庭の子どもたちの育成のためにと、保護者達により道祖神が建てられ、今日まで子どもたちの守り神として見守ってきました。


石久摩淵と緑橋



 この子どもたちの通う川辺小学校の校歌第三唱に「石久摩淵の月影や兵どもが夢のあと…」と詠われている「石久摩淵」は、先の産川の流れが湾曲した箇所です。
 当時の産川は、この箇所にあった堰で止められ、ゆったりとよどんでおり夏の時期は子どもたちの格好の水遊び場であったとのことです。その後、堰が取り除かれ石久摩淵は消えてしまいましたが現在も当時の面影が偲ばれます。また、その当時に掛けられた手前の「緑橋」は幅1mあまりの歩道橋で吉田、福田、築地、東築地から学校までの最短の通学路になっており、今も元気な子どもたちの笑い声、話し声に満ちています。



半過

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千曲公園



 「手掘りのトンネル」(㉜)からの景色が日本百景に選ばれたのを記念して、岩鼻の上に作られたのが千曲公園です。当時多くの方々の賛同のもと、土地の提供なども受け出来上がりました。
 園内には「千曲の清流」(徳富蘇峰書)の石碑が建立されています。また、五穀豊穣と商売繁盛の駒場稲荷神社もあります。
 開園当時植えられた桜のほか、最近地元の有志により花桃が植えられ、花見の時期には多くの人で賑わいます。 公園からは、北に坂城町や千曲市、眼下には千曲川や「上田道と川の駅」、さらに上田市街地や塩田平、遠くに小諸まで見渡すことができます。また、武田信玄と村上義清が戦った上田原合戦場の辺りも手に取るように見ることができます。
 千曲公園へは「上田道と川の駅」から約700m、徒歩20分ほどで行くことができます。


岩鼻



 120mの絶壁が千曲川にせり出すようにそびえています。かつてここは川の底でしたが、地殻変動により岩山がせり上がり、それが千曲川の流れで削られて絶壁になりました。真下から見ると、茶色い岩の間に白っぽい丸い岩がたくさん見えます。これは「捕獲石」と呼ばれ、岩がせり上がる時、川の石を巻き込んだものです。また、千曲川の対岸からトンネルのように見える穴は、川の水が強くぶつかって岩の奥まで削りできたものです。そして、この崖はかつてはチョウゲンボウの営巣地でした。
 さらに“その昔このあたりは湖でした。沢山のネズミがその西の端にすんでいて田畑を荒らしたので、唐猫を連れて来て退治…”という伝説もあります。


手掘りのトンネル



 かつて上半過と下半過の往来は、狭く危険な山や崖を越え、千曲川の沿岸道に出ていました。
 そういう危険な道を越えなくても通れるよう、明治33年頃、山の下にトンネルが掘られました。石ノミなどを使い、岩肌がそのまま残っていることから「手掘りのトンネル」と言われています。このトンネルから撮影した千曲川の景色が、大正11年日本百景に選ばれました。
 トンネルは崩落の危険があるため、現在は中に入れません。


塩田神社(鹽田神社)



 塩田神社のある山口地区一帯は、その昔「塩田村」と呼ばれていました。神社はその名を残し、山口の集落のほぼ中央に建てられています。
 祭られているのは、『古事記』『日本書紀』にも登場する海神の「鹽土老翁神」です。
 約400年前の建立と言われていた旧社殿は、平成20年地区住民によって建て替えられました。けれども、入口の鳥居は当時のまま残されています。
 かつてお祭りに使った芝居(塩田歌舞伎)の背景画や幕が、現在も保存されています。また、社殿の裏には下の曽良の句に詠まれた沼もありましたが、今は埋め立てられ遊園地になっています。


河合曽良の句碑



  塩田神社境内にある縦75cm、横48cmほどの石碑で、河合曽良が1702年頃献納したと伝えられています。曽良は上諏訪出身の俳人で、松尾芭蕉の弟子です。碑には「汐飛ぶや岩にこびつく沼の苔」という曽良の句が刻まれています。曽良が芭蕉の『更級紀行』の跡をたどって「姨捨の月」を訪ねた折、上諏訪の生家への帰途、塩田神社へ立ち寄ったのではないかと言われています。

水神様と木符





 産川と浦野川合流地点の下流、昔「塩田川」と呼ばれた山口地区内の川、その堤防わきに祀られた石の祠の水神様です。祠の中にあった木符(写真)の表に「奉造立 九頭竜大権現」、裏に「干時永禄七甲子年三月吉日 願主塩田村 祈願大法要」とあるので、永禄7年(1564)の建立と思われます。おそらく、水を鎮め人々の生活や田畑を守ってもらうことを願い造立されたのでしょう。


県道力石上田線改修、開通記念碑



 半過洞門(現在不通)の上半過側出口から約30mの旧県道沿いに建つ高さ5mほどの石碑です。大正3年から昭和7年まで、約20年間の県道の道路工事の歴史が刻まれています。
 険しい崖や巌を切り崩す難工事、資金難などの苦労を乗り越え、ついに県道力石上田線の改修、開通を実現させたのは地域住民でした。その熱き思いと行動の様子が、力強い漢字カナ交じり文で記されています。碑文は、上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)初代校長、針塚長太郎先生の作・書によるものです。


モイワナズナ



 半過の岩鼻と北海道の藻岩山だけに生えている貴重な花で、県の天然記念植物です。氷河期の生き残りだと言われていますが、藻岩山で最初に発見されたところから「モイワナズナ」と名付けられました。4月から5月にかけ人の手の届きにくい岩壁で、可憐な白い花が小群落を作り開花します。近い将来、絶滅が心配される「絶滅危惧種」で、地域では保存・増殖にも力を入れています。


中の沢遺跡、半過古墳群
(上田市文化振興課から提供)



 「上田坂城バイパス」建設工事に絡み、半過地区埋蔵文化財の記録保存のため平成18〜19年に発掘調査が行われました。その結果、縄文から平安にかけての遺跡から、古墳や住居跡、そして人骨、土器、副葬品等が多数出土しました。現在は埋め戻され遺跡を見ることはできませんが「上田道と川の駅」に古墳が復元され、諸資料は国分寺資料館に保管されています。


半過の家並み



 明治初年頃に建てられた蚕室造りの民家で、大屋根の上には気抜きが載っています。
 かつて半過は養蚕で栄えていましたが、今でもこのような民家がまだ何軒か残っています。
 このころの半過は、ほとんどの家が養蚕に関わっており、品質のよい蚕種がとれることで名が知られていました。また、全国各地に蚕種を届け、そのかわりにその地の名産品(お茶や綿など)を仕入れて帰り、販売していた家もありました。


薬師堂



 下半過地籍にある薬師堂は、享保6年(1721)に芳泉寺第2世鉄心和尚によって創建されました。本堂には薬師如来が、堂庭には六地蔵が安置されていました。
 本堂が昭和18年火災により焼失したため、薬師如来は新しく建てられた薬師堂に安置されました。ところが、その仏様は昭和51年に盗難に遭い、今も行方不明です。その後住民の熱意で新仏像(増田国雄先生作)が安置され、現在に至っています。


福田

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福田神社



 祭神は事代主命、建御名方命、大国主命です。秋祭りには獅子舞が門付けで舞ってくれます。鳥居の「福田」は珍しい字が使われています。隣にある観音堂は、りんご祭りで有名です。


宝池



 享保19年(1734)に起工された宝池は、上田藩が資材を調達し、上田領内全域から1万3000人余りの人を集めて、わずか20数日の短期間で完成しました。その後、文化14年(1817)に修築されました。別名福田池とも言われ、住民から親しまれてきました。


吉田

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嚮善学校正門



 小泉・下室賀・吉田・福田村立学校として明治10年(1877)設立されました。大正5年(1916)吉田区に払い下げられ、平成13年(2001)に第六中学校の地に移されました。


古池



 仙石氏が上田に移封したころには既に築かれていたと言われるほど古くからある池です。天明2年(1782)増築され、きれいな菱形をしています。池を造った記念として建てられたと言われる「青木(※)のお地蔵さん」があります。※青木は地域の字名です。


枡池



 名前の由来は四角い形から枡池といいます。小高い丘の上にあるので、地元の人は上池ともいいます。明和8年(1771)に願い出して翌年完成しました。