川辺泉田まちづくり協議会(かわせん)|上田市|住民自治組織

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Tel:0268-75-8812

上田市の川辺・泉田地域の10自治会の「住民自治組織」として2017年5月30日に誕生いたしました。

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歴史的資源② Historical resources

半過

千曲公園



 「手掘りのトンネル」(㉜)からの景色が日本百景に選ばれたのを記念して、岩鼻の上に作られたのが千曲公園です。当時多くの方々の賛同のもと、土地の提供なども受け出来上がりました。
 園内には「千曲の清流」(徳富蘇峰書)の石碑が建立されています。また、五穀豊穣と商売繁盛の駒場稲荷神社もあります。
 開園当時植えられた桜のほか、最近地元の有志により花桃が植えられ、花見の時期には多くの人で賑わいます。 公園からは、北に坂城町や千曲市、眼下には千曲川や「上田道と川の駅」、さらに上田市街地や塩田平、遠くに小諸まで見渡すことができます。また、武田信玄と村上義清が戦った上田原合戦場の辺りも手に取るように見ることができます。
 千曲公園へは「上田道と川の駅」から約700m、徒歩20分ほどで行くことができます。

岩鼻

手掘りのトンネル

 120mの絶壁が千曲川にせり出すようにそびえています。かつてここは川の底でしたが、地殻変動により岩山がせり上がり、それが千曲川の流れで削られて絶壁になりました。真下から見ると、茶色い岩の間に白っぽい丸い岩がたくさん見えます。これは「捕獲石」と呼ばれ、岩がせり上がる時、川の石を巻き込んだものです。また、千曲川の対岸からトンネルのように見える穴は、川の水が強くぶつかって岩の奥まで削りできたものです。そして、この崖はかつてはチョウゲンボウの営巣地でした。
 さらに“その昔このあたりは湖でした。沢山のネズミがその西の端にすんでいて田畑を荒らしたので、唐猫を連れて来て退治…”という伝説もあります。
 かつて上半過と下半過の往来は、狭く危険な山や崖を越え、千曲川の沿岸道に出ていました。
 そういう危険な道を越えなくても通れるよう、明治33年頃、山の下にトンネルが掘られました。石ノミなどを使い、岩肌がそのまま残っていることから「手掘りのトンネル」と言われています。このトンネルから撮影した千曲川の景色が、大正11年日本百景に選ばれました。
 トンネルは崩落の危険があるため、現在は中に入れません。

塩田神社(鹽田神社)

 塩田神社のある山口地区一帯は、その昔「塩田村」と呼ばれていました。神社はその名を残し、山口の集落のほぼ中央に建てられています。
 祭られているのは、『古事記』『日本書紀』にも登場する海神の「鹽土老翁神」です。
 約400年前の建立と言われていた旧社殿は、平成20年地区住民によって建て替えられました。けれども、入口の鳥居は当時のまま残されています。
 かつてお祭りに使った芝居(塩田歌舞伎)の背景画や幕が、現在も保存されています。また、社殿の裏には下の曽良の句に詠まれた沼もありましたが、今は埋め立てられ遊園地になっています。

河合曽良の句碑

水神様と木符

  塩田神社境内にある縦75cm、横48cmほどの石碑で、河合曽良が1702年頃献納したと伝えられています。曽良は上諏訪出身の俳人で、松尾芭蕉の弟子です。碑には「汐飛ぶや岩にこびつく沼の苔」という曽良の句が刻まれています。曽良が芭蕉の『更級紀行』の跡をたどって「姨捨の月」を訪ねた折、上諏訪の生家への帰途、塩田神社へ立ち寄ったのではないかと言われています。  産川と浦野川合流地点の下流、昔「塩田川」と呼ばれた山口地区内の川、その堤防わきに祀られた石の祠の水神様です。祠の中にあった木符(写真)の表に「奉造立 九頭竜大権現」、裏に「干時永禄七甲子年三月吉日 願主塩田村 祈願大法要」とあるので、永禄7年(1564)の建立と思われます。おそらく、水を鎮め人々の生活や田畑を守ってもらうことを願い造立されたのでしょう。

県道力石上田線改修、開通記念碑
 半過洞門(現在不通)の上半過側出口から約30mの旧県道沿いに建つ高さ5mほどの石碑です。大正3年から昭和7年まで、約20年間の県道の道路工事の歴史が刻まれています。
 険しい崖や巌を切り崩す難工事、資金難などの苦労を乗り越え、ついに県道力石上田線の改修、開通を実現させたのは地域住民でした。その熱き思いと行動の様子が、力強い漢字カナ交じり文で記されています。碑文は、上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)初代校長、針塚長太郎先生の作・書によるものです。

モイワナズナ


中の沢遺跡、半過古墳群
(上田市文化振興課から提供)

 半過の岩鼻と北海道の藻岩山だけに生えている貴重な花で、県の天然記念植物です。氷河期の生き残りだと言われていますが、藻岩山で最初に発見されたところから「モイワナズナ」と名付けられました。4月から5月にかけ人の手の届きにくい岩壁で、可憐な白い花が小群落を作り開花します。近い将来、絶滅が心配される「絶滅危惧種」で、地域では保存・増殖にも力を入れています。  「上田坂城バイパス」建設工事に絡み、半過地区埋蔵文化財の記録保存のため平成18〜19年に発掘調査が行われました。その結果、縄文から平安にかけての遺跡から、古墳や住居跡、そして人骨、土器、副葬品等が多数出土しました。現在は埋め戻され遺跡を見ることはできませんが「上田道と川の駅」に古墳が復元され、諸資料は国分寺資料館に保管されています。

半過の家並み

薬師堂

 明治初年頃に建てられた蚕室造りの民家で、大屋根の上には気抜きが載っています。
 かつて半過は養蚕で栄えていましたが、今でもこのような民家がまだ何軒か残っています。
 このころの半過は、ほとんどの家が養蚕に関わっており、品質のよい蚕種がとれることで名が知られていました。また、全国各地に蚕種を届け、そのかわりにその地の名産品(お茶や綿など)を仕入れて帰り、販売していた家もありました。
 下半過地籍にある薬師堂は、享保6年(1721)に芳泉寺第2世鉄心和尚によって創建されました。本堂には薬師如来が、堂庭には六地蔵が安置されていました。
 本堂が昭和18年火災により焼失したため、薬師如来は新しく建てられた薬師堂に安置されました。ところが、その仏様は昭和51年に盗難に遭い、今も行方不明です。その後住民の熱意で新仏像(増田国雄先生作)が安置され、現在に至っています。


福田


福田神社

宝池

 祭神は事代主命、建御名方命、大国主命です。秋祭りには獅子舞が門付けで舞ってくれます。鳥居の「福田」は珍しい字が使われています。隣にある観音堂は、りんご祭りで有名です。  享保19年(1734)に起工された宝池は、上田藩が資材を調達し、上田領内全域から1万3000人余りの人を集めて、わずか20数日の短期間で完成しました。その後、文化14年(1817)に修築されました。別名福田池とも言われ、住民から親しまれてきました。


吉田

嚮善学校正門



 小泉・下室賀・吉田・福田村立学校として明治10年(1877)設立されました。大正5年(1916)吉田区に払い下げられ、平成13年(2001)に第六中学校の地に移されました。

古池



 仙石氏が上田に移封したころには既に築かれていたと言われるほど古くからある池です。天明2年(1782)増築され、きれいな菱形をしています。池を造った記念として建てられたと言われる「青木(※)のお地蔵さん」があります。※青木は地域の字名です。

枡池



 名前の由来は四角い形から枡池といいます。小高い丘の上にあるので、地元の人は上池ともいいます。明和8年(1771)に願い出して翌年完成しました。